聖徳太子の太子舘
聖徳太子(別名厩戸の皇子:うまやどのおうじ、574年-622年)は飛鳥時代の皇族で、推古天皇の字歳に摂政(せっしょう)を務めた人物であるが、その功績から、後世に多くの伝説が生み出されている。そのうちのひとつが富士山に係わるもので、甲斐の黒駒にまたがり富士山に登った、という話である。その際に休憩をした場所が、現在太子舘が建っている場所だと言われている。太子舘という名前は、この伝説から名づけられたものである。このような理由で、太子舘には聖徳太子が祀られている。この伝説にちなんで、太子舘の焼印は馬蹄形の物になっている。
富士講と薬缶(やかん)
江戸時代には富士山に信仰の一環として登山する富士講が盛んになった。講というは自治会的な組織で、富士講とは近所の人々でお金を積み立てて何年かに一度富士登山に訪れたり、地元で宗教的儀式をしたり、富士塚というミニチュア富士山を築いてそこに登ったりして富士山を信仰する集まりである。講は、富士山の麓の宿坊や、山小屋に様々なものを寄進しているが、このような薬缶もある講から寄進されたものである。本体の筒部分や、ふたの持ち手部分には講の名前やマークが彫られている。太子舘に残っている最も古いものは、寛政10(1798)年に作られた貴重な薬缶であるが、現在も実際に使用されている。
マネキ
マネキとは、富士講が自講の名前やシンボルマークを記した旗や木であり、富士山に登拝する際に掲げて目印にしたり、自講の勢力をアピールするのに使われたものである。山小屋や麓の宿坊に奉納されたものが今でも多く残っている。太子舘に現存するものは、富士講の重要人物である身禄の名の入ったものや、講のマークと個人名や屋号が記されているもので、木製の板マネキと呼ばれるものである。
石臼
太子舘の付近で発見されたもので、富士山で修行をしていた行者が食事の際に粉をひくために使用していたものだと考えられる。
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